先日、立川志の輔さんの落語を観に行った。
―――暗い劇場の中で、高座に座る志の輔さんだけが明るく照らされている。その姿には圧倒的な存在感がある。
そして噺が始まると、自然とそこに視線が吸い寄せられる。
ところが、不思議なことに、じっと志の輔さんを見つめているはずなのに、いつの間にか頭の中には落語の世界が広がっている。
登場人物の表情や、会話している場所、その場の空気までが浮かび上がってくる。
目は確かに高座を見ている。それなのに、意識の中では別の景色を見ている。
見ているのに、見ていない。
この独特な体験と同じものをまだ私は見たことがない―――
ただ、今回特に印象に残ったのは、落語そのものとは別の話。
志の輔さんが、自分の伝えたいことに合わせて演目を選んでいる、と話されていた。
今、自分が伝えたいことがある。
それを表現するために、古典落語の中からふさわしい演目を選ぶこともあれば、自ら創作落語をつくることもあるという。
実際にその日は、創作落語と、古典落語の『死神』を楽しませてもらった。
創作落語の方では、片田舎の盆踊りに外国人が大挙して押し寄せるという、なんともおかしな展開があった。その前の枕では、大阪に外国人観光客が本当に増えた、という話をされていたのだが、それが実に自然な形で噺の世界につながっていく。
身近な社会の変化を題材にしながら、それを観客が楽しめる一つの作品に仕立て上げている。
この話を聞いて、改めてすごいことだと思った。
自分が伝えたいことを作品に込める。
言葉にすると簡単だが、それをお客様にとって面白い体験として成立させるのは、並大抵のことではない。
志の輔さんほどの技量があれば、自分の言いたいことを表現しながら、同時に観客を楽しませることができる。
・自分が伝えたいこと
・相手が楽しめること
その二つを高い次元で両立させているのが、あまりに極めている。プロの所業。
すべての演目が終わり会場を出る時、私は普段の仕事における姿勢について考えていた。
例えば、SNSへの投稿や、何かしらの企画・制作をするとき。
「自分はこれを伝えたい」
「こういうものをつくりたい」
そうした思いを出発点にすることは珍しくない。
もちろん、それ自体は悪いことではない。むしろ、何かをつくる上で大切な原動力でもある。
ただ、仕事として誰かに届ける以上、そこには受け取る側の存在がある。
その投稿を見た人はどう感じるのか。
そもそも興味を持ってもらえるのか。
本当に伝わっているのか。
そうしたことを、どこまで考えられているのだろう。
厄介なのは、相手のことを考えているつもりになってしまうことだ。
自分なりに考え、自分なりに工夫した。
だから、これで伝わるはずだ。
……その「自分なり」が、受け手の求める水準に達しているとは限らない。
ここに、私は一種のおこがましさを感じる。自分なり、なんてあまりに薄弱な根拠を自覚しておかなければならない。
一方で、SNSの反応や閲覧数、実際のデータと向き合いながら、何が求められているのかを考え、改善を繰り返す姿勢がある。
私は、こちらの方がずっと謙虚な態度なのではないかと思う。
データの群は、見てくれた方の総合的な意見であるし、自分の感覚が間違っている可能性を認めることだからだ。
自分が面白いと思っていても、相手はそう思わないかもしれない。
自分が伝わると思っていても、実際には届いていないかもしれない。
その現実を受け入れて、相手の反応から学ぼうとする。
数字を追いかけるというと、どこか打算的で、表現として純粋ではないように聞こえるかもしれない。
けれど、少なくとも仕事においては、数字と向き合うことは、受け手に対する誠実さの一つなのだと思う。
もちろん、数字がすべてではない。
また、経験の浅い人間が、自分の伝えたいことを表現してはいけないという話でもない。
ただ、自分の伝えたいことを優先しながら、それでも相手を満足させられるというのは、相応の技量があって初めて成立することなのだろう。
志の輔さんの落語には、それがあった。
自分の伝えたいことがあり、しかしそれを一方的に押し付けるのではなく、観客にとって豊かな体験へと昇華している。
そこに、道を極めたプロのすごさを感じた。

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